2009年11月03日

汐見茂思の失敗 〜 草の花 : 福永武彦

「草の花」 福永武彦

 再読。

 真っ白な雪が降った日、自殺行為にも似た手術を受けて帰らぬ人となった青年・汐見茂思。病室で親交を持った僕の手には、汐見の青春の日、美しい魂を持った少年・藤木との、そしてその妹・千枝子との儚く破れた愛を綴った2冊のノートが残された。

 ・・・四年前に読んだ時には、この孤独に苛まれる青年・汐見茂思を「エェ、面倒くせぇ男だ」としか思わなかった。そりゃ、あんまり汐見に冷たい。もしかして、もう一度読んでみたら印象が変わるかなぁ、と・・・思ったんだけど、汐見のウザさが増しただけだった。藤木に愛を請い、愛を説く汐見は、まるで押し付けがましい勧誘員のように独りよがりなんだもの。

 ―ねえ藤木、それじゃ君は一人きりで誰の助けも借りないで、歩いていこうっていうのかい?

 ―ええ

 ―だけど人間なんて無力なものだよ、そんなに君みたいに言ったって、

 ―それは無力です。でも僕の孤独と汐見さんの孤独と重ね合わせたところで、何ができるでしょう?

 ―孤独だからこそ愛が必要なのじゃないだろうか?

 汐見は自らの孤独と愛を口にする。自分の孤独を強靭なものにしたいのだと言いながら、一方で彼が求めた愛は、親密な幸福感に満たされた世界の中に閉じてしまうこと〜 幼児のような幸福感の中で、孤独を忘れてしまうような類のものであったように見える。彼が見ていたのは「孤独」ではなく、そのような愛に満たされていない自分の中の「欠落」なのであって、彼は自分の本当の「孤独」を量ることはできていなかったのではないか。

 自分の孤独を量れない汐見は、藤木の孤独を量ることも出来ない。そして、藤木の方がむしろ本当の孤独に近い人だった。藤木は自らの孤独の為に、汐見の求める愛の中に閉じてしまうことを拒んだのだろう。


 藤木を喪った汐見は、藤木の妹・千枝子を愛するようになる。千枝子も兄と同じように、汐見の愛には漠然とした違和感、怖れを抱くが、それでも彼女は汐見に優しかった。スパークする幸福感の中で、千枝子を押し倒した時、しかし、汐見は孤独の本当の姿を見たのだ。

僕が感じていたものは、愛の極まりとしての幸福感ではなく、僕の内部にある恐怖、一種の精神的な死の観念からの、漠然とした逃避のようなものだった。

愛は僕を死の如き忘却にまで導くことはなかった。もう一歩を踏み出せば、時は永遠にとどまるかもしれない。しかしその死が、僕に与える筈の悦びとは何だろうか、―――僕はそう計量した。激情と虚無の間にあって、この生きた少女の肉体が僕を一つの死へと誘惑する限り、僕は僕の孤独を殺すことは出来なかった。そんなにも無益な孤独が、千枝子に於ける神のように、僕のささやかな存在理由の全部だった。この孤独は無益だった。しかしこの孤独は純潔だった。


 愛の力で孤独を打ち消してしまうことを無意識に拒んだ汐見。しかし、孤独の本当の姿を見てしまった後も、汐見の思う愛は変わらなかった。汐見にとって、愛とは孤独を殺してしまうもの。汐見が孤独を選んだ以上、汐見にとって愛は永遠に得られないものになってしまう。孤独と両立しうる愛を見つけることができなかった汐見は絶望する。

 もしも、汐見にもっと時間が与えらていたなら、いつかは彼も愛を得ることが出来たのかもしれない。でも、千枝子との愛に破れて後、戦地へと召集され、その後、病をえた彼には充分な時間が与えられることはなかった。


愛するというのは選ぶこと、そして選んだ以上は、一生を賭けて責任を持たなければならないのでしょう?(藤木)

石井を選んだのはわたくしの意志で、〜略〜もしその後わたくしが不幸になったとすれば、それはみんなわたくし一人の責任で、母も石井も与るところはない筈でございます。(千枝子)


 「孤独」とは自分に責任を持つということで、「愛する」とは他人が負っているそれぞれの孤独=責任の一部を我が事として引き受けるということなのだと思う。

 汐見茂思は、孤独を守ることにも、愛することにも、愛されることにも、芸術家として生きることにも、ただありふれた人として生きることにも失敗した。これは、そんな「汐見茂思の失敗」の物語だ・・・と言ったら冷たすぎるだろうか。

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2008年02月23日

夢見る少年の昼と夜 : 福永武彦

「夢みる少年の昼と夜」 福永武彦

 11の短編。静かに、じっと、夢を、記憶を、空想を、心にあるヴィジョンを見つめ続ける少年、娘、男、女。

 「夢見る」「空想に耽る」・・・そんな生易しいものではない。ひたすら自分の内に目を凝らし、自ら遊ぶ、または囚われている幻想の世界を、もう一つの冷たい目が見続けている。自らを凝視する目は、ついにもう一人の自分を生み出して・・・。


 何人とも共有することができない、自らの存在のエッセンスでもある、自分だけが見ているこの世という“夢”。その孤独を知っているということは、一つの強さとなると思うのだが、あまりにはっきりとそれを見てしまうことは、やはり耐え難いことなのだろうか。

 自分を見つめる目が自分を危うくするとは皮肉なことだと思う。それでも尚、自分を凝視し続ける目。痛々しく、研ぎ澄まされて、怖ろしい。

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2005年11月21日

風のかたみ : 福永武彦

「風のかたみ」 福永武彦著

 生まれ育った信濃の国を捨て都に上った田舎武士・大伴次郎信親は、身を寄せる中納言家の萩姫に想いをつのらせるが、姫は敵である左大臣家の若君安麻呂に心惹かれている。一方、笛の名手でもある次郎は町の美しい笛師の娘・楓に想われ、萩姫に懸想した盗賊・不動丸は姫を我が物にせんとつけねらう。

 すれ違い、いずれも実ることの無い想いに翻弄される者たちは悲劇へとなだれ落ちていく。平安の都に綾なす恋、風に乗り流れる笛の音・・・ 美しくも悲しい王朝絵巻。

 人を想い、恋焦がれ身をけずりながらも、ついに相手の真に望むものを与えることはできない。それは自分が何を求めているかもよく分からないままに恋をし、他人を求めてしまったものの迎える当然の悲劇かもしれない。

 ここに登場する姫や若い武士は、「草の花」の汐見茂思〜恋にやぶれ自殺行為のような手術を受けサナトリウムで帰らぬ人となった青年〜と同じだ。一人相撲のような恋を繰り返し描いて、福永氏は他人の心に何を求めたのだろう。

 「草の花」を読んでいなかったら、美しい悲恋の物語として楽しんだかもしれない。でも2作を並べてみると同様のテーマを感じずにはいられない。

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2005年04月06日

面倒臭い男だなぁ、もう! 〜 草の花 : 福永武彦

「草の花」 福永武彦

 真っ白な雪が降り積もったサナトリウムで自殺行為にも似た手術を受けて帰らぬ人となった青年・汐見茂思。病室で親交を持った僕の手には、汐見の青春の日、美しい魂を持った少年・藤木との、そしてその妹・千枝子との儚く破れた愛を綴った2冊のノートが残された。

 こう書くと、叙情的で悲しくも美しい青春小説?とも思えてしまうし、私も裏表紙の紹介文を読んで、多少なりともそういうものを期待して買ったのですが・・・。ちょっとちがったかな??? 知的な文学青年が「愛」だの「孤独」だのの観念で他人と自分を振り回しつつ、一人相撲をとっているだけの恋愛をした挙句に絶望したり、悟っちゃったり。“おいおい、ちょっと待ってくれよ、そりゃあアンマリ勝手ってもんじゃないかい?”と何度心の中でもらしたことか。

 福永氏が人間のもつ「孤独」「エゴ」と「愛」について考察したエッセイ「愛の試み」を先に読んでいたせいか、「草の花」も小説というより、氏が考えるそういった観念的なものを検証するための長めのサンプル文という気がしなくもない。

 いや、でも「愛」とは言わないまでも他人に何かを期待するとなると、心の平静は多かれ少なかれ失われます。何も期待しないことの「孤独」と、期待したものが満たされない「孤独」どっちを取るかって・・・。でもそんな観念的なことばかりで私、生きていませんから!『人が相手を自分のために愛するのではなく、相手を相手のために純粋に愛する』って・・・無理、それ。相手のどこか一部が、自分にとってなくてはならいものになっているから、自分を愛するように相手を愛するのかなぁ・・・と、最近思ったりする私です。

 それにしても、一つ前に読んだ「自殺されちゃった僕」は死んだ人に残されてしまった人の手記、「草の花」は自ら望んで死を迎えるようにも見える青年の手記が大部分を占める小説。「死ぬ」っていう言葉が溢れていて、ちょっと滅入ってしまいました。

 そんなに死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ言うなよぉ〜。パァ〜っと行こうよ〜 もっと!

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posted by sweet_pea at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福永武彦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする